銀座カフェーパウリスタ物語

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カフェーパウリスタは、日本のコーヒーの歴史と共に歩んできました。
時間の流れは、様々な出来事とともに素晴らしい物語を育ててきました。
さあ、おいしいコーヒーと一緒に、歴史の香りも味わってみませんか?

文学の中のカフェーパウリスタ

大正時代パウリスタは文藝活動の一拠点でした。
今回は文学の中に登場する、文士たちのカフェーパウリスタへの想いをご紹介しましょう。

珈琲の香にむせびたる夕より夢みる人となりにけらしも (吉井 勇)

やはらかな誰が喫みさしし珈琲ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる(北原 白秋)

宇野浩二に即して言えば、大正二、三年からカフェ「パウリスタ」に出入りしていた。 何時間いても、使った金は一杯五銭の珈琲二杯と一個五銭のドオナツだけで、合計十五銭だった。 宇野は、その店で見かけた当時二十一、二歳(宇野より一つ年下)の佐藤春夫の姿を二十五、六年後に回想している。

「佐藤春夫が山高帽をかぶり、その山高帽に大変よく似合う洋服を着て、珈琲沸しの側の台の前を横切るやうに通った洋風な姿を思ひ出す」(宇野浩二『文学の三十年』より)

この頃、宇野は牛込若松町の清月館という下宿に住んでいて、そこからカフェ「パウリスタ」に通っていた。カフェ「パウリスタ」は明治四十四年十一月南鍋町の旧時事新報前に出来た。

(山本容朗氏『文士とカフェと女給』より)

そんな私が、慶応の学生になった頃、銀座にあった時事新報社の真ン前にカッフェ・パウリスタが開店した。
コーヒーが一杯五銭、それだけで何時間ねばってゐてもいやな顔一つしなかった。 「時事」の文藝部にゐた邦枝完二を呼び出して無駄話をしてゐると、いろんな文士が「時事」に原稿を届けに来て、みんなパウリスタで一ト休みして行く。 おかげで、いろんな文士の顔を見ることが出来た。一番多く見掛けたのは近松秋江だった。

(小島政二郎氏『私の西洋菓子』より)

パウリスタ赤黒缶について記した内容(赤黒缶は現在も販売中です。)

パウリスタ赤黒缶

思えばおかしいようなことではあるが、あの黒地に紅い文字を抜いたコーヒーの小缶を買って帰るとき、それがまるで新時代そのもののような新鮮な感触をあたえたことであった。
当時エヴリーマンス・ライブラリーが一冊五十銭、ロータス・ライブラリーもまた大体五十銭から七、八十銭見当、海外文学の翻訳といえば岩波文庫のような重宝なものはなく、わずかに新潮社から出ていたわずかばかりのもので渇を医していたころであったから、勢い外国文学は英訳をたよりに読むより手がなかったので、文学好きの青年たちはいずれもロータス・ライブラリーのご厄介になったものである。
(------- 中略 -------)

そこでパウリスタの小缶とこの五十銭本一冊とを買い求めて帰路を急ぐときの心喜びというものは大したものである。
太陽はつねにわれらの上に明るく、新しい世はわれらの手でとまではいかないにしても、いっぱし新時代の知識人みたいな気障っぽい顔つきをして、低俗どもを見下すような気持ちを快しとした。

(奥野信太郎氏『酒場今昔記』より)

大正モダニズムの騎手 カフェーパウリスタの功績

ブラジル移民の父、水野龍氏の理想が実現した
わが国の珈琲文化の幕開け(1)

1804年のわが国初のコーヒー飲用体験記には、 《紅毛船(オランダ船)にてカウヒイというものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、百糖を和したるものなり。 焦げくさくて味わふるに堪えず。》とある。

記したのは大田蜀山人。コーヒーは江戸時代の美食家の口に合わなかったらしい。
明治に入るとわずかながらもようやく喫茶店らしきものが出現しはじめる。
中でも日本初の本格的な喫茶店として知られるのは、上野西黒門町の「可否茶館」である。

この「可否茶館」は、コーヒーを飲ませるだけでなく、書籍や書画の閲覧や手紙を書く客のための文房室、シャワー室・更衣室までしつらえ、ビリヤード台もあればクリケット場もあるという、イギリスのコーヒーハウスを模した画期的な店であった。しかし、コーヒーの味だけでなく、その豪華さ高級さが当時の日本人には馴染めず、赤字が続いてわずか四年ほどで店をたたんでしまうのである。

その後も「カフェライオン」や「カフェプランタン」といった高級レストランや芸術家の出入りするサロン風の店はできたが、コーヒーそのものを楽しむ喫茶店の登場は大正の世が明けるのを待たなければならなかった。

大正2年10月。銀座の街に突如、白亜三階建てのコーヒーハウスが誕生した。
この店こそ、後の喫茶業の原型となったともいわれる「カフェーパウリスタ」である。

正面にはブラジルの国旗が翻り、夜ともなれば煌々と輝くイルミネーションに、人々は胸ときめいた。
中に入ると北欧風のマントルピースのある広間には大理石のテーブルにロココ調の椅子が並び、海軍の下士官風の白い制服を着た美少年の給仕が、銀の盆に載せたコーヒーをうやうやしく運んでくるのである。
しかも、庶民が、洒落た空間で本格的なコーヒーを味わう代金として、一杯五銭という価格は破格に安値だった。

こうしてカフェーパウリスタは開店と同時に、誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれていったのである。
銀座の本店に続いて、京橋、堀留、神田、名古屋、神戸、横須賀と全国各地に支店を増やし、第一次世界大戦が終わる頃には、22店を数えるまでに至った。

大正モダニズムの騎手 カフェーパウリスタの功績

ブラジル移民の父、水野龍氏の理想が実現した
わが国の珈琲文化の幕開け(2)

カフェーパウリスタが、一般庶民にコーヒーを広め喫茶店文化の先駆的な役割りを果たした事実とともに、創立者である水野龍氏の苦難の日々も忘れるわけにはいけない。

1906年、ブラジルに渡った水野氏は、サンパウロ州のコーヒー耕地が日本農民の移住に好適であることを知り、当地に赴いて実情を確かめ、大規模な移民計画を立てた。

日本人海外移民の歴史の古くは、17世紀初頭にジャワのコーヒー園に雄飛した500人の記録まで遡るが、本格的な移民の渡航は1885年(明治18年)のハワイ移民である。いずれも多くはコーヒー栽培に従事した。
しかし、1908年(明治40年)の「日米紳士協約」によって、ハワイへの移民が厳しく制約され新開地を模索。時宜を得て水野氏が設立した皇国殖民合資会社から、ブラジル移民第一陣がサンパウロ州に送り出された。そして以後、10回で統計1万5千人近くもの日本人がブラジルに渡っていったのである。

しかし、その統率者でもある水野氏の苦労が始まるのは送り出してからであった。
地球の反対側といえるほど遠く離れた異国で、移民たちを待ち受けていたのは、コーヒーの不作、炎天下の重労働と風土病であった。人々は挫折し、脱落者も出る有様だった。

水野氏は根気強く説得を繰り返した。
「諸君は日本を代表し、この地の開拓移民としてはるばる渡ってきたのである。諸君の手から収穫される珈琲はすなわち日本の国産品であると言って過言ではない。第二第三の後続移民のためにも万難を克服して努力されたい。」

大正モダニズムの騎手 カフェーパウリスタの功績

黒く熱く、そして甘い珈琲
誰もがカフェーパウリスタで新時代の香りに酔った

水野氏が第一回移民を送り込んだ翌年、ブラジル政府は同氏の功績に報いるために、毎年1500俵の無償供与を約束。併せて日本におけるブラジルコーヒーの宣伝と普及を委託してきたのである。そこで彼は資金繰りに奔走、大隈重信らの後援を得て数名の同志とともに大正元年、サンパウロ州庁専属ブラジルコーヒー販売所を合資会社とし、翌年株式会社「カフェーパウリスタ」を設立した。 正社員200余名、従業員2000名を超える大組織であった。

開店祝いの席で水野氏はこう挨拶した。
「コーヒーを売るのは友邦ブラジルの負託に応えることであり、ブラジル移民の辛苦と努力に報いることであり、かつ日本文化の向上に資することなのだ。カフエーパウリスタはそういう事業を行っているのだという使命感に燃えているから意気込みが違う。」

この言葉どおり、カフエーパウリスタはコーヒー普及のための企画を次々に打ち出し、全国的規模で販路拡張に尽力した。人の集まるところに出向いて試飲会を開いたり、学校の運動会、会社の慰安会では無料サービスしたりと、愛好者を増やすことに務めた。

宣伝の方法も奇抜で洒落ていた。身長1メートル80余の大男が、シルクハットに燕尾服姿で美少年給仕を従え、銀座どおりの道ゆく人にコーヒーの試飲券を配るのである。その試飲券には「悪魔の如く黒く 地獄の如く 熱く 恋の如く甘い」というコーヒーを表す魅力的なキャッチフレーズが記されていた。

また、女学校出の婦人に上流階級の家庭を訪問させ、コーヒーのいれ方や飲み方を紹介する普及活動もしていた。デパートの洋食器売場にコーヒー茶碗が並び、西洋風の新しい生活への憧れを誘ったのもこの頃である。

こうしてカフェーパウリスタは、午前9時の開店から夜11時の閉店まで椅子を争うほどの盛況ぶりで日に4000杯のコーヒーが飲まれたのである。

大正モダニズムの騎手 カフェーパウリスタの功績

多くの文化人が愛した
コーヒーとドーナッツとオルゴールの音色

誰もが気軽に入れるように当初のメニューはコーヒーが五銭、ドーナツも五銭。そのほかの軽食も庶民的な価格であった。
一杯のコーヒーでその日の苦労を忘れ、明日の活力を養ってもらうこと、また静かな雰囲気の中で仲間と語り合える場所であること。水野氏はこの二つを喫茶店の理想としていた。そして日本の文化水準を欧米諸国と同レベルに高めることを望んでいたのである。
そのあたりが、カフェとは名ばかりで女給をおいて酒が売り物で歓楽的に過ごす場所とは一線を引いていた。あくまでも、大衆にコーヒー文化を広めることを使命としていたからである。

当時の銀座店の周辺は新聞社や外国商館が並び、東京を代表する文化の街であった。
カフエーパウリスタの向かい側、現在の交詢社ビルの場所には時事新報社があり、同社に出入りする作家や記者などをはじめ、各界の文化人もパウリスタのコーヒーに親しんだ。

文学界では、水上滝太郎、吉井勇、菊池寛、久米正雄、徳田秋声、正宗白鳥、宇野浩二、広津和郎、佐藤春夫、小島政二郎と、常連客の顔ぶれもそうそうたるものである。

また、時を同じくして近くに開館した洋画専門の活動写真館・金春館は国内初めてフルオーケストラを導入し、こちらも連日人気を博していた。
活動写真を見たあと、人々は列をなしてパウリスタに立ち寄った。
コーヒーと洋菓子を味わいながらの語らいは、ハイカラな銀ブラ族のみならず、誰もが新時代を体感できるリーズナブルな娯楽であった。大正モダニズム華やかりし頃の光景である。

震災がさらった大正ロマン

時の流れに変化しながらも守り続けられるもの

大正12年9月1日。その日もいつものように正午を告げる空砲がどーんと鳴って、昼食を求める人で賑わうはずであった。突然、史上最大の激震が関東一円を襲ったのである。東京は3日間燃え続け、カフェーパウリスタの美しい洋館もまた、瓦礫と化してしまうのである。

この関東大震災は、規模を大きくしすぎた反動と折からの不況のために経営が深刻化している矢先の大きな痛手となり、カフェーパウリスタも変身を余儀なくされてしまう。加えてまもなく、ブラジル政府からのコーヒー無償供与の期限が切れ、ブラジルコーヒー普及宣伝の任務も完了したのである。

その後は残された資産で焙煎卸業を中心に復帰、第二次世界大戦中に当局の指令で社名を今日の日東珈琲と改称したのちも、水野氏の理想を脈々と守り続けている。その苦しい復興期で尽力し社長として事業を継いだのは、現会長・長谷川浩一氏の父君・長谷川主計氏である。

現在、銀座のカフェーパウリスタは8丁目のビルの1階にある。静かな店内は、老舗の店主や買物帰りのミセスたちの憩いの空間だ。銀座を愛する人が訪れるとき、ドアのガラスに印された星の中の女王が、80年前と変わらぬ微笑みで迎えてくれるはずである。